オリンピックの思い出

2020年、夏のオリンピック・パラリンピックが東京で開催されることになった。私の世代ではこれまで、時代の区切りのひとつとして”オリンピック前”とか呼んでいた。無論これは1964年に開催された、先の東京オリンピックを指してのことである。これからは2020年に開催予定のものを指して呼ぶことになるのではないだろうか。

 

さて、先のオリンピックの思い出である。確か私が小学4年のころである。やはり裸足のアベベと、金メダルをとった女子バレーボールが思い出される。正確に言うとアベベが裸足でマラソンを走り、金メダルを取ったのは、その前のローマ大会であり、東京では靴を履いていたらしい。しかし、なぜか私の記憶では東京でも裸足走ったようになっていた。そして、そのころ子供達に流行ってのが、”裸足で走ると身が軽いので速くなる”という俗説であった。さらに、輪ゴムを足の親指からクロスさせてかかとの後ろに掛けると、指先にバネが効いてさらに速くなる戦法?もよく耳にした。私自身2つの方法を運動会で試してみたが、素足だと土ですべりやすく、かえって遅くなった。また輪ゴム戦法は、たいていの男どもが同じ戦法であったためか、優劣は不明であった。また、輪ゴムを外し忘れ、家に帰ると足の親指が少し青くなっていたのを母親に見つかり、「バカたれが」とひっぱたかれた記憶が残っている。尚、裸足走法が学校の職員会議で問題になったらしく、その後、運動靴着用を義務付けられたような気もする。

 

 私は小学校のころ野球が大変好きで、ソフトボールをよくやっていた。当然、中学では野球部に入ると思っていたが、気がついたらバレーボール部に入っていた。なぜ野球大好き少年がバレーをやるようになったのかは、今を持ってよくわからないが、このオリンピックの記憶が強かったからかもしれない。女子バレーと言えば、”鬼の大松”こと、大松博文監督と、回転レシーブである。当時の中学バレーは9人制で、なんと屋外の土の上でやっていたのだ。単に私の中学校が貧乏だったからではなく、市内全中学、そして県大会のコートも屋外であったことからも、屋外球技と位置付けられていたことがわかる。確か体育館を使っていたのは卓球部と体操部だったと思う。さすがに卓球を屋外でやれば、風の影響をもろに受け、やっていられないだろう。また、体操のマットを屋外に敷くわけにもいかないどろうから、限られた体育館の優先順位を考えれば、バレーが屋外になるのはうなずける話ではある。

 

ところで、土の上でバレーをやるとどうなるかである。そのころ、回転レシーブに加え、フライングレシーブというものも流行っていた。ユニホームはランニングシャツである。これで地べたを転がり(回転レシーブ)、そして前方にジャンプしながら胸元から滑り込む(フライングレシーブ)のである。そう、ランニングシャツに短パンで。当然汗もかいている。したがって泥だらけ、は言うに及ばず、あざだらけともなる。”血だらけ”の練習という言葉があるが、文字通りの光景であった。私にとって、バレーボールとは炎天下で泥だらけになってするスポーツであった。今でいえば、ほとんどビーチバレーの世界である。

 

また、当時は練習中に水を飲むとよくないとされ、喉が渇いても水を口に含ませこそするが、吐き出すように言われていた。また、ジャンプ力をつけるためとし、”うさぎ跳び”が日課であった。今でこそ誰も信じないが、巨人の星・星飛雄馬を見て育った世代である。”根性”だけは、とことんついたと思う。

 

 

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