久しぶりに妻の実家、気仙沼に出かけた。あの震災・津波災害から4年目の春である。家の中にいると、あの時のことが遠い過去のことのように思われた。
震災後、電気も水道もまだ来ていなかったころ、ほんの数日ではあったが手伝いに行った。家は一階部分を津波に襲われていた。家具を運び出し、使えそうな建具など井戸から汲み上げた水で洗った。夜には懐中電灯の明かりの下、みんなでで少しだけ酒を口にした。海に軍艦が浮かび、空には米軍ヘリが飛び交い、そして陸では若い海兵隊員が重機を使い捜索と瓦礫除去の作業を必死でしてくれていた。まさにそこは”戦場”だった。
その後、壊れた一階部分が修復され、そして昨年、家の水回りのリフォームが行われていた。ずいぶん住みやすくなったように感じた。
家族全員が津波から難を逃れたものの、1年過ぎるころ心労がたたったのか義母が急逝した。仏壇に掲げられた遺影をみるとやはり寂しい。妻の友人の両親は津波にのまれたまま、まだ帰ってきていないとのことだった。
一歩家の外に出ると、朝早くから護岸工事が盛んに行われていた。あの震災は様々な災害をもたらした。だが、壊れたものは直せばよい。しかし、あの時、1メートル近くも沈下した岸壁を見て私は恐ろしくなった。壊れているのではなく、そのまま海に沈んでいる。それが海岸線に延々とつづく。まさに”日本沈没”という小説の世界が、そのままそこにあったのだ。
沈下した地盤は、ところによって再び隆起してきているという。目の前で地球が動いているのだ。
津波災害を受けた沿岸の工事には、沈下した地盤のかさ上げと、津波対策の壁の設置がある。山も崩し、それをダンプで運ぶ。場所によっては大きな船で土砂を直接運んでいた。沿岸はこれらの土建工事のためのダンプカーと作業する人達であふれていた。地元の人も、工事をしている沿岸の中の道路に入ると、建物が何もないため、どこを走っているのかかわからなくなるという。
長年の悲願であった大島への橋工事や、三陸沿岸を縦断する高速道路の工事も進んでいた。街は復興工事で活況を呈していた。まさに世紀の大工事が延々と三陸沿岸に繰り広げられている。数年後これらのインフラ工事が終了した後どうなるのか。一抹の不安も覚えた。離れた人は戻るのか。そしてなにより津波対策とはいえ、海と街を遮断する強大な”城壁(防潮堤)”は港町としてのこれから歴史に耐えられるのか。
漁業者など仕事をする場としての海岸の機能性、観光としての海岸の景観、そして生活をする場としての海岸の安全性、それぞれの見方がある。時に、鋭く意見が対立することもあるという。これらすべてを満たす海岸のあり方はなさそうだ。
長年、海と共に生きてきたある養殖をやっている人が「よけいなものを作られてはたまらない」と仲間と共に関連する土地を購入している、との話も聞いた。
壊れたものは時間をかけても直せばよい。津波は逃げさえすれば、命さえあればなんとかなる。よけいなものは作らないで・・・私はこの声に小さくうなづいた。
「気仙沼夢の復興図」念願の橋と高速道路が
大島架橋のジオラマ 「気仙沼海の市」で展示
かさ上げされた道路から下に降りる「一景嶋神社」が復活。かつて道路と同じ高さにあったもの
鹿折地区:かさ上げされた街に魚の加工工場などの建設が進んでいた
「気仙沼案内所バス停」かつてバス会社の建物と待合室があった場所にそのままベンチだけある
バス停のようだが、JR「松岩駅」の赤い看板
BRTとなった気仙沼線は一般道も走る
船で砂利を運びそれをダンプでかさ上げの現地に
かさ上げ工事中の沿岸:砂漠のような光景が広がっている中、重機だけがもくもくと
かつての商港付近にそびえ立つ巨大な”城壁”
防潮堤とはいえ・・・どこまで続くのか・・・
”城壁”工事の進捗を表した写真が掲示してあった
港町気仙沼は大きく変貌しつつある
”砂漠”の中にぽつんとビルがひとつ:志津川地区
津波には踏ん張ったものの・・・
あの、避難呼びかけの放送を続けた南三陸町防災庁舎跡:献花台もみえる・・・解体か保存か
鹿折地区の復興計画図
「リアスアーク美術館」 気仙沼関連の震災写真と被災物を展示中