でんでら国

還暦を過ぎて間もないこのお正月に、「でんでら国」の世界に行った。平谷美樹の小説の中の話であるが、今の私にとって「でんでら国」はある意味、身近な物語であった。

 

東北の南部藩・大平村の奥に「でんでら国」と呼ばれる60才を超える高齢者だけが暮らす御山があったという。逆に言えば、その俗世としての大平村には60才までしかいられないという掟がある。まぁ姥捨て山のようなものにも感じるが、実はこのでんでら国では、田を耕して自給しており集落を維持するリーダもいる。つまり当時ご法度であった大平村の隠田としての機能とともに、世代による住み分け社会として描かれているのである。

 

興味深いのは高齢者につきものである童返り(認知症)になった人の介護も、よりましな年寄りが面倒を看ているところである。一言でいえば老老介護であるが、この老々介護を家庭内でなく社会全体で取り組んでいる姿が描かれているのである。

 

確かに現代社会でも老々介護の現実がある。しかしその多くが家庭内で取り残された家族が、閉鎖的な環境で行っているケースが多く、時として悲惨な結果をまねいている。この「でんでら国」の老老介護はなんだか明るい。俗世との住み分けもあり、また年取ってからの役割もある。ひとつの希望社会のようにも私には感じられた。

 

現在、私が田舎暮らしをしているここ大分でもそうであるが、地方の成長産業は葬祭場と病院・介護施設である。そしてその病院・介護施設で年寄り相手に働いている人に若者が目立ち気になっていた。仕事が少ない地方だから仕方がないのかもしれないが、これからの若者の仕事が希望を持てる仕事なのか、である。還暦を過ぎた身だからこそ感じるのかもしれない。

 

東京でサラリーマンの生活をしていたころは、まさにグローバルな競争社会のど真ん中におり、様々な人が入り乱れた共生であった。幾度か仕事や観光で海外にでかけると日本とはまったく違った景色や価値観に触れ、様々な刺激を受けた。熾烈な競争は止まった方が負けであり、ずいぶん命をすり減らしたように思う。

 

一方、ここ大分の田舎暮らしは刺激も競争も少なく、様々な習慣に縛られての共生社会である。しかし当時の自分から見れば自然の中の”異次元”の暮らしと映るだろう。都会暮らしと田舎暮らし、世代としての住み分けが現代の「でんでら国」につながっているのかもしれない。

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