定年ゴジラ

内館牧子の定年小説「終わった人」は、いきなりズバット目の前に突き付けられ、ほんと身もふたもないタイトルで、読み終わった後も居心地がよくはなかった。わかっていても「あんた、”終わった人”なのよ」と言われると、やはり辛い。しかし、やっぱし人から言われないと自分のことはわからないものである。そのような意味で、読んでよかったと思うし、同年代の人達にも進めたい小説だった。

 

それに対し、重松清の「定年ゴジラ」はとにかく哀愁が漂う物語で、読んでいる自分を穏やかな気持ちさせてくれた。

 

物語の背景は「終わった人」も「定年ゴジラ」も同じ。多少は悔いが残るものの、とにかく精一杯働いてきた。そんなオヤジが定年後、食うには困らないが特にすることもない、その時にどうなるか、という物語である。

 

両者の時代は少々異なる。「終わった人」は現代の平成の世であるから、とりあえず都会のマンション住まいの定年オヤジのやることはジム通いである。それに対し昭和の終わりころの、郊外のニュータウン(団地)の一戸建てに住む定年オヤジがすることは散歩であった。そんなところから始まっていた。

 

「定年ゴジラ」では最初から仲間ができる、同じ団地に住む定年オヤジの散歩仲間である。たぶんこれが昭和という時代であったのだと思う。必ず人の和ができ、そして家族という中心軸から広がりを見せる、そう、アットホーム(昭和の言葉で今や死語か?)な物語なのである。

 

”ぬれ落ち葉”。自動車のフロントガラスに貼りつく枯れた落ち葉の様である。さして用もないのに、ただ妻の出かける先に付いていく、旬を過ぎた男達・・・。この「定年ゴジラ」の中ではこれらの定年オヤジが出てこないのが救いである。

 

”亭主元気で留守がいい”、これが真実。これからも肝に銘じておきたい。


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