粗衣粗食令

TV番組で幕末の佐賀藩主:鍋島閑叟(カンソウ)の功績を議論していた。江戸の佐賀藩邸で生まれた鍋島閑叟が、初めて佐賀に行くや、浪費がたたり藩の財政は火の車で、謝金取りに追われたという。

 

そこで藩主になった閑叟が最初に取った策が「粗衣粗食令」だというのである。今でいうと佐賀県条例の類になるだろうか、緊縮財政による質素倹約を百姓・町人まで命じられたのである。そして、その功があってか藩の財政は次第に改善され、閑叟の様々な施策により「薩長土肥」と言われる幕末の変革をリードする雄藩の一角を占めるようになったのである。

 

その佐賀生まれの私の側で、一緒にTVを見ていた妻が少し微笑みながら言った。「あなたのお母さんは、ずっとその粗衣粗食令を守っていたね」・・・佐賀の倹約指向のルーツはここにあったのである。

そういえば、大分である人から言われたことがある。「佐賀出身ですか、あの倹約家の」・・・

「ケチ」を無難な標準語にすれば「倹約」という言葉になる。「ケチ」と言われれれば角が立つが、「倹約」と言われれば、「はい、物を大事にするんです」と素直になるのが人というもの。

 

確かに私自身、一つ服を買えば破けるまで着るのは当然のこととし、破けた靴下も針と糸で繕いながら使い続けたこともある。また食事の時も、美味しい物はとっておき、最後に食べるくちである。あれは亡き母の後ろ姿を見て、身に付いた作法であることは疑いない。そして、それは閑叟の「粗衣粗食令」から100年以上に渡って脈々と受け継がれている、ということであろう。

 

もうひとつ、閑叟の話題として語られたのは「ひとつの不安要素から、10のネガティブな未来を予測する」という慎重な性格である。これは、同じく幕末の「フェートン号事件」の影響らしい。鎖国体制の中、唯一交易をしていた長崎に、イギリス軍艦が入港して無理難題を要求され、当時長崎を警護していた佐賀藩がこれを受け入れ責任を取らされた事件である。

 

そいうえば、妻から言われたことがある「石橋を叩いて、叩いて、最後に石橋を壊してしまうタイプ」らしいのである。この私が。確かに万事慎重なタイプではあるが、そこまでではないだろう。が、やはりこの性格も、鍋島閑叟由来と、言えなくもない・・・か?

 

技術者タイプの閑叟はすばらし仕事をした。欧米の軍備に対抗するため鋳造や反射炉を整備し、殖産産業に力を入れ、海外からの技術導入拡大の為専門技術の翻訳・用語集の体系化もなしたそうである。当時、西欧の技術を母国語(日本語)で学べたのは日本だけであり、この先鞭をつけたのが、この閑叟とのお説出あった。かつて工場の技術者であった私は、(勝手に)に鼻が高くなる。

 

さらにTVの司会者は「薩長土肥」と言うけれど、当時一番力を持っていたのは肥前・佐賀藩であり、「肥薩長土」というべきではないか、とほめちぎるのであった。

 

言うまでもないが、時代を切り開いた先頭バッターは、功罪あれどもやはり”西郷どん”の薩摩である。力はあっても世の中でいい仕事ができるわけではない。多くの人を引っ張るリーダがいてなんぼである。

 

ひるがえって、大分・緒方町で日夜米作りに励んでいる私であるが、この地域にも米を作る人は沢山いるが、リーダ格の人材に乏しい。これからの農業の方向示す人、使いこなす人の登場が待たれる。

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